15.小松軍曹と市尾伍長

 S湖沼での野営時、わたくしは市尾伍長と焚き火を守っておりました。そうして二人きりで文学の話をしておりました。
 わたくしにはこの時間がとてもおもしろく感じられました。なぜなら、他に文学の話のできる兵士がいなかったからです。文学なぞ女々しい室内遊戯だ──そう思われていた戦時中のことですので、仕方のないことだったのです。
 わたくしたちは声をひそめながら話していました。しかし、そのうちに興奮してきて、知らず知らず声が大きくなっていました。
 このような場面を誰かに見られたら、軍法会議にかけられるでしょう。それなのにわたくしたちは、熱っぽく激論を交わしていたのでした。さらに悪いことには、敵国のある小説を讃えるまでに我を失っていたのです。
 そこに現れたのは、颯爽と馬を操る小松軍曹でした。軍曹は地獄耳ですから、たまたま近くを通りかかっただけでもわたくしたちの会話が聞こえたのでしょう。
 わたくしは震え上がり、顔面を蒼白にして黙り込みました(お恥ずかしい話ですが、わたくしはそのご、軍曹が去るまで一言も語を発することができませんでした)。伍長はと言うと、わたくしと同様震えていたものの、毅然として軍曹を見上げました。
 軍曹の現れる直前、わたくしたちは文章の威力について議論を戦わせていました。軍曹はそれを聞きつけたらしく、伍長に向けて怒号をぶつけます。
「文弱の徒め。『ペンは剣よりも強し』とは何だ。剣がペンより弱いはずがないだろう。剣とペンで立ち回りができるか。ペンに人は殺せん。」
 軍曹は口角に泡を溜めながら、まくし立てました。わたくしは黙って俯きましたが、驚くことに、伍長は声を震わせながら抗弁を始めました。伍長が抱く文学への情熱は知っていましたが、それが上官に刃向かえるほど強い物だとは思いませんでした。
「ペンが強いというのは、書くことができるからであります。ペンは後世まで考えを伝えられるのであります。そうして、知力は腕力よりも偉大な、人間最大の武器だということであります。」
「書くこととは何だ?」
「創ることであります。」
「創ったって何が強いのだ。壊せる剣の方が強いに決まっている。剣は人を殺せるが、ペンは人を殺すことを創れるのかね?」
 軍曹は皮肉たっぷりにそう言いました。すると、やや間があってから、伍長は「創れます。ペンは何でも創れます。」と答えました。その時のわたくしには、それは伍長の強がりのように思えました。
 軍曹はいかにも憎たらしいといった顔つきでしばらく伍長を睨んでいましたが、しまいにこう言いました。
「創ってみよ。ならば創ってみよ。人を殺せる文章を! 期限は一週間。創れなければ、わかっているな。この剣で、おまえの首をはねてやる!」
 軍曹はサーベルをすらりと抜き、宙で無茶苦茶に舞わせてから切っ先を伍長の喉元に突きつけました。わたくしは思わず目をそむけました。当の伍長は、刃が触れるか触れないかの距離なのに、微動だにせず軍曹を直視し続けていました。その様子はまるで、「ペンは剣よりも強し」と無言で訴えているかのようでした。
 それを見た軍曹は不敵な笑みを浮かべながらサーベルを鞘に納めました。そうして馬を駆って去っていきました。
 軍曹が去るとわたくしは腰を抜かしてその場に座り込んでしまいました。伍長は冷や汗を流しながら、軍曹の去っていった方向を見つめています。わたくしは伍長に「どうするつもりなのか」と問いました。すると伍長は、「やるしかないだろう」とだけ言って沈黙しました。

 それからの一週間、伍長はろくに寝食もせず机に向かいました。その姿はさながら幽鬼のようで、その時の様子は思い出したくもないほど恐ろしいものでした。
 一週間経ち、約束の日が来ました。軍曹とその側近の兵士数名が伍長のテントに訪れました。
「市尾伍長、外に出よ。」
 兵士が何度も呼びかけましたが、伍長からの返事はありません。不審に思った兵士はテントの中を覗きました。その瞬間、兵士は「あっ」と声を挙げました。中で、伍長が短刀を喉に突き刺して絶命していたのです。
 遺体のかたわらには一通の封筒が置いてありました。厳重に封印されていて、表に「小松軍曹以外の人間は中身を見るべからず」と断り書きがしてあります。
 これを見た軍曹は、さすがに肝を潰したのでしょう、側近に開封を求めました。
 事情を知らないその兵士は、命じられるがままにその封筒を開け、入っていた便箋に目を通しはじめました。
 読みはじめてすぐのことでした。その兵士は突然絶叫しながら頭を抱え、そうして辺りを苦しそうに走り回り、終いには短銃で自分の頭を撃ち抜きました。
 これを見ていた兵士たちはわけもわからず混乱しましたが、軍曹だけは顔を青くしつつほほえんで、「新しい兵器の誕生だ」と呟きました。そうして便箋を作戦本部に持ち帰るよう部下に命じました。命じられた部下は怯えながら、便箋を慎重に封筒へ入れ、自らの懐にしまいました。

 作戦本部に帰ってきた軍曹は、将校たちに新たな作戦を提案しました。
「ご覧下さい。この手紙には呪われた文章が書かれております。読んだ人間を死に至らしめる、忌まわしき文章であります。にわかには信じられないかも知れませんが、効果は実証済みであります。嘘だと思われるなら、試しましょう。おい!」
 軍曹は部下の一人に手紙を読むよう命じました。その可哀想な兵士は抵抗しましたが、取り押さえられたまま無理矢理文面に目を晒しました。程なくその兵士はガクガクと痙攣し始め、泡を吹きながら舌を噛み切って死んでしまいました。
 この様子には、幾多の修羅場を潜り抜けてきた将校たちも驚きを禁じ得ませんでした。そうして熱心に、話の続きに耳を傾けました。軍曹は次のような恐ろしい作戦を提示しました。
〈殺傷能力のあるこの手紙を大量複製し、敵国にばらまく〉
 何ということでしょう。伍長が魂を削って書き上げた文章は、殺戮兵器へとその姿を変えてしまったのです。それは、伍長にとっては耐え難い仕打ちだったでしょう。「文学は人々を幸せにする物だ」と信じてやまなかった伍長にとっては…。
 軍曹の発案になるこの作戦は、満場一致により採決され、なるべく早く実行することが取り決められました。
 文章を見ないよう、慎重に印刷作業が行われました。印刷してもその魔力がなくならないことは、捕虜を使用した生体実験によって証明されました。伍長の死から二週間後、いよいよ作戦が開始されました。
 大量のビラは複数の爆撃機に搭載され、上空から敵国全土へ投下されました。作戦指揮官の軍曹は爆撃機のうちの一機に乗り込み、悪魔の笑みを浮かべながらヒラヒラと舞い落ちる無数の紙片を眺めていました。全てのビラが投下されると、編隊は満足げに基地へ戻りました。
 作戦を遂行した数日後、軍曹は曹長に呼び出されました。軍曹は作戦成功の報償に与れると思っていましたが、その期待は全く裏切られました。作戦は見事に失敗していて、敵国には全く被害がなかったのです。軍曹はこっぴどく叱られたあげく、減俸まで命じられる散々な通達を出されました。
 軍曹はやり場のない怒りを部下たちにぶつけながら、こう叫びました。
「あの野郎、人を殺せる文章が創れるなどと大口叩きおって。嘘つきめ! …そうか、あいつは約束破りを恥じて自決したのだな。ペンで死んだのではない、剣で死んだのだ。」
 それは間違いでした。伍長は確かに人を殺せる文章を創ったのです。作戦が失敗したのも、実は文章力不足が原因ではなかったのです。敵国の人間にとって伍長の文章は外国語であり、理解できる者がほとんどいなかったからなのです。
 伍長の文章をインチキと決めつけた軍曹は、あの恐ろしい手紙を鞄から取り出して読みました。ああ、軍曹は勘違いをしています。その文章は本当に危険なのです。あの作戦では、わたくしたちの言語を理解しない外国人が相手だったから被害がなかったのです。言語を理解できる軍曹は、このままでは命を落としてしまいます。
 …あれ? 全く影響がないようです。どうしたことでしょう。
 ああ、何ということでしょう。軍曹が発した次の言葉は、戦慄を覚えさせるに充分な物でした。
「痛くもかゆくもないわ。何が書いてあるのかさっぱり読めん。」
 忘れていました、軍曹は文章の美を全然理解しない人間だったのです!
 文盲の軍曹は手紙を破り捨て、誇らしげにこう宣言しました。
「分かり切っていたことだが、やはり剣の方がペンよりも強いのだ!」