13.芥川賞

    一

     堀川の大殿様のやうな方は、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらつ
    しやいますまい。
    ──芥川龍之介地獄変』より──

 堀川保吉が點鬼簿に加はつてから十年ほど經つた或夕べである。神田神保町の表通りに面したカツフエの二階は、平生通り「ゴルデン・バツト」の煙が濛々と立ち籠めてゐる。その、階段から最も奥まつた一角に、テエブルを挾んで向かひ合ふ二人の男があつた。
 一人は、年の頃は三十前後であらう、丸坊主の丸顔に丸眼鏡をかけた、如何にも滿ち足りた血色の良い男である。が、連れとの對面にどうも困つてゐるらしい。脂汗を拭ふやうにシルク製の手巾を頻りに使つてゐる。
 もう一人はどこか神経質らしい男で、蒼白い顔に不氣味な微笑を湛え、病的な眼差しの中に快活な光を傲然と輝かせてゐる。身なりからは若く感じられるが、顔は病魔に冒された老人のやうで、年齢は判然としない。
「姉崎くん、僕もたうたう芥川賞作家だよ。長かつた、實に長い一年だつた。」
「結構な事で。」
 姉崎と呼ばれた例の丸い男は、珈琲カツプを掻き混ぜながら、二の句を継げず苦しさうに呻いた。
「どうしたい。」
「いえ、何…。」
 姉崎はクルクルと囘轉する珈琲カツプの中をぢつと注視したまま默つてしまつた。
「君はまだ疑つてゐるのかい? 僕が芥川賞を受賞出来ないかも知れないつて。はゝゝゝ心配性だなあ。」
 隈の酷い目を爛々とさせて、神経質そうな男は哄笑した。
「僕には見えるんだ。作家連中が、僕の作品に驚嘆する情景が。命を削つて書いた作品集だもの、虚飾に綾取られた奴等の作品とは比べ物にならぬ位のリアリチィがある。」
「リアリチィ、ですか。」
「僕の作品には、現實が存在してゐるんだ。苦惱・祈り・諧謔。あれこそ、芥川先生以來の、全うな文學だよ。文學の在り得べき姿だ。」
 姉崎は訝しげに眼鏡を直して見せた。
「一寸失禮…。」
 男は急に恐ろしさうな色を浮かべ、黒鞄を弄つた。護謨のチユウブと一本の注射器を取り出した。
「またパビナールですか…。官兵に見付かつても知りませんよ。」
 男はチユウブの端を銜えながら、姉崎を鋭く睨んだ。姉崎は沈黙するより他に仕方がなかつたに違いない。男の血走つた目は、狂人のそれと撰む所がなかつたのである。
 男は端を銜えたままチユウブを左腕にきつく巻いた。注射器を手にすると、分量を調整するため、先端から汐のように薬液を吹かせた。
 男は必死だつた。地獄の鬼に責め立てられる亡者のやうに、この作業を一刻も早く成就して苦悶から免れんとしてゐる。のみならず、極楽浄土の秘密の快楽に身を委ねやうとする欲求もあるらしい。締め上げられて青黒く浮かび上がつた血管に、震へる手で危なつかしく針を刺した。
 その直後、釈迦の懐にて禁断の秘術を施される快楽を覚えたやうに、さも愉快さうに口角を歪めた。虚ろな目は中空を彷徨い、顎には口から零れ落ちた涎が垂れ始めた。
「アハアハアハ…。見える、見える…。作家連中が僕の足下に平伏す様が…。流行作家となつて、皆の尊敬を一心に集める僕の姿が…。芥川先生に激賞され、飛ぶやうに賣れる僕の小説が…。」
 鎮痛剤中毒で妄想に取り憑かれたこの男こそ、第三囘芥川賞受賞を確信し、賞金で借金を返さうと圖つてゐた、當時二十七歳の太宰治であつた。

 

    二

     先日、佐藤先生よりハナシガアルからスグコイといふ電報がござゐましたので、お伺ひ申しますと、お前の「晩年」といふ短篇集をみんなが芥川賞に推してゐて、私は照れくさく小田君など長い辛棒精進に報いるのも惡くないと思つたので、一應おことわりして置いたが、お前ほしいか、といふお話であつた。
    ──太宰治『創世記』より──

 群馬県、谷川温泉の安宿である。
 早朝の山の涼気に目を覺ましたばかりの太宰治は、枕頭に朝刊の置かれてゐる事を発見した。布團に這入つたまゝ早速目を通し始める。今朝の新聞には、心待ちにしてゐた芥川賞の發表が載ると、知つていたのである。
 一瞥して、直ちに「おや」と思つた。在る筈の自分の名と自分の作品名とが無く、代はりに愚とも付かぬ作品が記されてゐたからである。
 まず、太宰は彼自身の目を疑つた。何度か擦つて見た。しかし、見える景色は以前と變はりがない。次に、「はゝあ、俺は大方惡い夢を見てゐるのだらう」と思つて、頭をばんばん叩いたりもしてみた。が、やはり效果がなかつた。突き付けられた記事が残酷な現實であると否應無く受け入れねばならなくなつた時、太宰は初めて涙を流した。
 第三囘芥川賞に選ばれた作品、それは太宰治『晩年』ではなく、小田嶽夫『蹴りたい城外』と鶴田知也『蛇にコシャマイン』だつたのである。
 太宰は絶望した。徹底的に打ちのめされた。様々な感情が、魑魅魍魎のやうに跋扈し始める。それは丁度、百鬼夜行の屏風繪に似てゐた。真つ赤に燃ゆる舌をチロチロと出してゐる白蛇姫は、船橋に残して來た太宰の細君である。だらしなく口を破けさせてゐるお化け提灯は、世間の風評が實體化した化け物である。借用書を振り囘してゐる骸骨どもは、パビナールを盛つてくれた薬屋の主人、生活費を工面して呉れた友人たちらしい。姉崎に似た狸も居る。狡猾さうなぬらりひよんは、佐藤春夫で間違ひあるまい。異形の者どもが踊り跳ね、鐘を衝きながら、太宰の腦を次々に通過して行く。それは狂つてしまひさうになるほどの耐へ難い苦しみだつた。
 そんな中、太宰を最も苦しめたのは、大紅蓮に包まれた火車である。それは嫉妬の異名であつた。
「天才の、この俺を、え、え、選ばないで、ああ! よりによって、二人も、二人も! 日本文學史上最高の作家、この太宰治を差し置いて、歴史に残らぬ凡夫を、選ぶとは! これは、何かの間違ひだ! これは何かの間違ひだ!」
 暴走を始めた火車は、物凄い勢ひで周圍の鬼たちを薙ぎ倒しながら、太宰の腦内を縱横無盡に駆け囘つた。

 

    三

     大作家になるには、筆の修業よりも、人間としての修業をまづして置かなくてはかなふまい、と私は考へた。戀愛はもとより、人の細君を盗むことや、一夜で百圓もの遊びをすることや、牢屋に入ることや、それから株を買つて千圓まうけたり、一萬圓損したりすることや人を殺すことや、すべてどんな經驗でもひととほりして置かねばいい作家になれぬものと信じてゐた。(中略)私は、そのやうなむだな試みを幾度となく繰り返し、その都度、失敗した。私は大作家になる素質を持つてゐないのだと思つた。
    ──黒木舜平(太宰治の別の筆名)『断崖の錯覚』より──

 猛り狂ふように咆吼し終へた太宰を待つてゐたのは、得も言はれぬ敗北感だつた。
 温泉宿から東京へ歸つて來た彼は、普段は癈人のやうに腑抜け、少し元氣さへ出れば狂犬のやうに誰彼構はず噛み付いた。
「若くて、女で、かわいければ! それだけで受賞できるのか!」
「日本文學の衰退を憂ふ! 俺は眞つ當な評價を受けねばならない!」
 太宰の錯亂ぶりは見苦しい物に違いなかつた。或いは、他の受賞者へ燃え上がらせた嫉妬の炎も、的外れのボヤだつたと難じねばなるまい。が、彼の愚かしい姿が憐憫の情を催させるのもまた歴然とした事實である。
 或る正午である。午砲が鳴り、その余韻が過ぎ去る頃、太宰の門を叩く者があつた。井伏鱒二である。麦藁帽で暑さを避けつつ、荒れる弟子に一家言授けやうと來訪したのである。
「おう、邪魔するぞ。」
 折角の師匠の訪問にも太宰は腕枕をして無言のまゝである。ゴロリと横になり、ムツツリと沈黙を護つてゐる。
 井伏は畳の上へドツカリと腰を下ろすと、團扇を使ひながら、こんな話をして太宰を慰めた。
「私はかう思ふ。『長い辛棒精進』をしていた小田君なんかより、新進作家であるお前に賞を與へた方が良かつたのではないか。時代に埋もれ、二十一世紀には最早誰も覺えてないであらう小田・鶴田より、日本文學史に唯一無二の地位を築くお前の方が、より芥川賞に相應しくはなかつたか、と。芥川賞は『各新聞・雜誌に發表された純文學短編作品中最も優秀なるものに呈する賞』で、『主に無名もしくは新進作家が對象となる』。」
 ここで井伏は語を切り、ニンマリと太宰を見詰めた。當の太宰は知らんぷりである。聴き手が無頓着だらうが氣にせず井伏は話を繼いだ。 
「『主に無名もしくは新進作家が対象となる』んだ。これこそが芥川賞の本旨だ。所謂職業作家として既に生計を立てゝゐる作家が、何年もかけて獲る賞ではない。況や有名作家をや、である。太宰、お前が獲るべきだつたんだよ。いや、第三囘の眞の受賞者はお前さ。だから腐らず、落ち込まず、精進を續けるんだ。」
 ここで初めて太宰が口を開いた。
「ですが、僕は金が欲しかつたんです…。賞金の五百圓が…。」
「金は俺が何とかするさ。」
 遠くで氷賣りの聲が聞こえる。二人の間には静かな時間と、じつとりとした夏の空氣が凝固した。太宰はいつの間にか涙を流している。
 井伏はニコニコしながら太宰を見守つてゐたが、やがて再び話し始めた。
「今囘の芥川賞、若い二人の受賞、これを歡迎する。帝大や三田の文學青年どもは、やれ話題作りだとか、やれ活字離れする若者へのアピールだとか、色々な氣焔を吐いてゐるやうだが、いいんだ、さういふ賞なんだから。
 芥川賞が堕落したといふ事は、ない。これまでの記録よりも数段早い最年少記録だつたから、批判されたんだ。それだけだ。お前は川端さんの、そして芥川龍之介の早熟を知つてゐる。さうして、夏目先生の遅咲きを知つてゐる。年齢なんて作品の善し惡しには關係無い、知つてゐるだらう。」
 太宰はただ默つて點頭いた。井伏は愈笑顔になつた。
「だから、素直に祝福しやうぢやないか。金原ひとみさんと綿矢りささんの受賞を。」